ドラッカーの経営書を初めて日本に紹介したのはキリンビール社員!キリンの経営とドラッカーの意外な関係。

キリングループの取り組みを紹介するインターナルブランディングWebサイト『KIRIN Now』の記事を社外用に編集して公開しています。(公開日2024年9月25日)

多くの日本企業に影響を与えたピーター・F・ドラッカーは 1909年にオーストリアで生まれ、現代のビジネスに必要不可欠である「マネジメント」という概念を提唱した経営学者で、経営だけでなく、組織のあり方、人間性の尊重などを幅広く論じました。

実はその経営書を初めて日本語に翻訳したのは、当時のキリンビール株式会社(以下、キリンビール)の社員たちでした。キリングループの先人たちのチャレンジ、先進性を紐解く出来事の一つとして、キリンの経営とドラッカーの密接な関係を紹介します。

日本に初めてドラッカーを紹介したのは、キリンビールの社員!

「マネジメントの父」とも呼ばれるドラッカーの経営書が、日本で最初に邦訳されたのは、1956年刊行の『現代の経営』です。

これは、当時キリンビールの社員だった高木信久さんが、フルブライト奨学金(※)で米国イリノイ大学に留学した際のお土産として、1955年9月に『The Practice of Management』6冊を会社に持ち帰り、社長をはじめとする経営陣に配ったことに端を発しています。

  • 米国と各国相互の人物交流プログラム。日米間では両国政府や民間が資金を拠出している。現在までに日本人約6,700人、米国人約 3,000人が参加し、教育、行政、法曹、ビジネス、マスコミ等のさまざまな分野で活躍している。

この本を読んだ、当時のキリンビール社長である川村音次郎さんが高木さんに翻訳することを勧めます。川村さんの助言を経て、社内で有志を募り、社業のかたわら翻訳が開始されました。途中から、川村さんのご子息で三菱石油株式会社(当時)に勤めていた川村欣也さんが加わります。また、他の書籍で川村欣也さんと共同翻訳の実績があった立教大学の野田一夫さん(当時は講師)に監訳を依頼しました。

こうして、「現代経営研究会」の訳ということで、『The Practice of Management』は邦題『現代の経営』として1956年5月に株式会社 自由国民社から出版されました。さらに、翻訳メンバーを増やして同年12月には続編を刊行しました。この時、翻訳メンバー10名中7名がキリンビールの社員でした。現代経営研究会はその後も『新しい社会と新しい経営』(1957年)や『変貌する産業社会』(1959年)といったドラッカーの他の著作を続けて翻訳出版しています。

<訳者あとがき抜粋>
この本こそ日本に紹介さるべき本である——このような考えが最初に持たれたのは、訳者らの一人がイリノイ大学に留学していた間のことである。帰国に際して彼はパーカーの万年筆の代りに、本書を半ダース求めて帰り、訳者らの勤務先キリンビール株式会社の社長以下幹部の方々に対する土産物とした。訳者らはこれらの本を借り受けて、ここ約半年の間に本書を訳出したのである。それゆえ我々はこの拙い訳を先ずもってキリンビールの幹部諸先輩並びに同僚諸兄に捧げるものである。……(中略)……我々の仕事の半ばに、立教大学講師の野田一夫氏並びに三菱石油の川村欣也氏を我々のグループにお迎えすることが出来たことは、我々にとっても、また読者にとってもまことに幸いなことであった。

昭和三十一年五月
現代経営研究会
高木信久
山下 宏
篠崎達夫
池内信三
小泉津二

  • 「訳者あとがき」の最後に記された5名は、いずれも当時のキリンビール社員。

『現代の経営』の巻頭には、第一生命保険株式会社や東京芝浦電気株式会社(現 株式会社 東芝)の社長を経て、当時の経団連会長を務めていた石坂泰三さんから「推薦の言葉」が寄せられました。その中でキリンビールの翻訳メンバーに対し、「私はこの書物を読み易い日本語に訳出したキリンビールの若手社員グループの労を多とし、あえて本書を広く江湖に推奨するものである。」と述べられています。

石坂さんの推奨もあり、『現代の経営』は戦後に翻訳された経営関連の書籍としては記録的なベストセラーとなります。これによって、ドラッカーの経営思想は日本の企業経営に多大な影響を与えました。

その後、『現代の経営』の版権は現在の株式会社ダイヤモンド社に移り、上田惇生さんによる新訳が1996年に出版されて以降は、キリンビール社員の貢献が人々の目に触れることはなくなりました。

現代経営研究会に参加した人財たち〜その後のキリンの国際化・多角化の礎として貢献〜

キリンビールは、1960年にコカ・コーラのボトリング事業に参入しましたが、翻訳者の一人である山下宏さんは近畿コカ・コーラボトリング株式会社(2006年に株式譲渡)に出向しました。同じく翻訳を担った篠崎達夫さんは、新設した米国駐在員事務所の初期メンバーの一人として米国に駐在しています。

山下さんも篠崎さんも、『The Practice of Management』を持ち帰った高木さんと同様に、後年フルブライト奨学金で米国に留学しており、キリングループが国際化を進めるための一翼を担いました。

また、途中から翻訳チームに加わった岸人宏亘さんは、1972年設立のキリン・シーグラム株式会社(現キリンディスティラリー株式会社)に出向し、1990年代に同社社長へ就任するなど、事業の多角化を支えました。

キリングループの経営に静かに根付いたドラッカーの思想

『現代の経営』は1956年の出版後、キリンビールの経営層から若手にまで幅広く読まれました。

1959年7月にドラッカーが初来日した際、日本事務能率協会(現日本経営協会)の主催で、日本の経営者向けに箱根で3日間にわたりセミナーが実施されます。そのセミナーには、後にキリンビールの社長を務めた高橋朝次郎常務(当時)と、同じく副社長に就任した真壁喜三郎常務(当時)が参加しています。

60余名を数えたセミナーには、日本を代表するような経営者も参加され、マネジメントという分野を初めて体系化したドラッカーが、のちの経済界に大きな影響を及ぼしたことがうかがえます。

また、1996年から2001年までキリンビールの社長を務めた佐藤安弘さんは、『現代の経営』を座右の書としていました。佐藤さんの経理部時代の先輩であり、翻訳者の一人である岸人宏亘さんから『現代の経営』を貰い受けたといいます。

このように、ドラッカーの経営思想がキリングループに与えた影響は計り知れませんが、その中でも特に、①目標と自己管理によるマネジメント、②人間性の尊重、③社会的責任の遂行——の3点が注目されます。

①については、キリンビールで1989年に経営職へ、1990年に総合職へ導入されたMBO-S(Management by Objectives and Self-Control)という考え方自体が、まさに『現代の経営』の中で初めて提唱された概念です。MBO-Sが導入された1990年頃の部長・役員クラスは、若手時代に『現代の経営』を読んだ世代でした。そのため、目標と自己管理によるマネジメントに関する知識が下地としてあったことも、MBO-S導入の後押しになったと推察できます。

実際、1968年4月号のキリンビールの社内報には「目標による管理」と題した記事が掲載されています。MBO-Sの骨子となる内容がまとめられており、こうしたアイデアは1980年代後半に突然現れたのではなく、長年にわたって温められていたことがうかがえます。

②人間性の尊重については、ドラッカーが持つ思想の根底に「人間を幸せにする社会をつくる」という考えがあります。人々の幸福には組織のマネジメントの良し悪しが影響し、個人を幸せにするマネジメント(人間性の尊重)こそが組織の業績向上につながる、とドラッカーは考えたのです。ドラッカーが「目標と自己管理によるマネジメント」(MBO-S)の導入を提唱したのも、「支配によるマネジメントを自己管理によるマネジメントに代える」という人間性の尊重が目的でした。

こうした考え方は、キリンビールの『醸造技術標準』序文(1978年)における「生への畏敬」(1986年改定時に追加)や、「人事の理念」(1988年)で掲げられた「人間性の尊重」などにつながっており、現在に至るまで受け継がれています。

③現在のCSVにつながるような企業の社会的責任も、ドラッカーが初めて提唱した概念です。「社会のリーダー的存在としてのマネジメントの社会的責任とは、公共の利益をもって企業の利益にするということである。」という内容が書かれています。

キリンビールが社会的責任を強く意識するようになったのは、1970年代の独占禁止法改正議論(※)が契機でした。正当な競争でお客様の支持を高めてきた結果であるにもかかわらず、市場シェアが高いことが社会的な問題として、4年間にわたって延々と国会で審議され、マスコミに大きく取り上げ続けられました。

  • 独占禁止法改正議論:公正取引委員会からキリンビールが市場を独占しているとして、企業間の公正で自由な競争を妨げる懸念を指摘され、会社分割の危機に陥った。

1975年にキリンビールが発表した「昭和50年度構造計画」で、シェア拡大の自粛、設備投資の抑制、第一次多角化といった安定成長の方針と並んで、「社会的責任の遂行」が掲げられたのには、このような時代背景がありました。社会の脅威としてみなされかねないリスクに瀕したキリンビールにとって、社会的な存在価値を示すことはまさに死活問題であったことから、社会的責任の実践はキリンビールの組織風土として定着していきました。

「公共の利益をもって企業の利益にする」という考え方は、1981年に発表された「長期経営ビジョン」に始まる第二次多角化の一環として、「技術開発」で「高齢化社会に寄与する」として参入したバイオ医薬事業や、その後2013年にキリングループに導入された「CSV」(※)の源流ともなっていきました。

  • CSV(Creating Shared Value):共通価値の創造。社会的ニーズや社会問題の解決に取り組むことで社会的価値の創出と経済的価値の創出を実現し、成長の次なる推進力にしていくこと(2011年にハーバード大学のマイケル E. ポーター教授とマーク R. クラマー氏が提唱した概念)。
    (参考)「CSV経営の源流と歩み」新しいウインドウで開きます

1970~1980年代の社会貢献活動

1978年、社会貢献の一環としてサッカー日本代表支援支援を開始

国際障害者年の1981年7月に、キリンビール株式会社創立75周年(1982年2月)を記念し、福祉目的専門の財団として設立

終わりに

キリングループの歴史に見るドラッカーの経営思想

キリンホールディングス株式会社 プロフェッショナルアドバイザー 溝内 良輔

『The Practice of Management』を邦訳するきっかけの一人となった川村音次郎さんは、元は三菱商事株式会社のロンドン支店長でしたから、おそらく高木さんがお土産に持ち帰った原書を不自由なく読まれたのでしょう。その上で、他のキリンビールの経営陣や社員に読んでもらいたいと考え、翻訳を勧められたのではないかと推察しています。帰国子女で英語が堪能であったご子息を翻訳チームに参加させ、その後のドラッカー氏の初来日時に当時常務だった高橋さんと真壁さんを2泊3日のセミナーに派遣されていることから、熱の入れようがうかがえます。

佐藤安弘さんの例からも分かるように、翻訳出版された『現代の経営』は当時キリンビールに勤務する多くの人に読まれました。経団連会長であった石坂さんの推薦もあって一般にも広く読まれ、日本企業の経営に大きな影響を与えましたが、中でも翻訳したキリンビールへの影響は別格であっただろうと想像できます。

ただ、『現代の経営』が出版された1950年から1970年代まではキリンビールの業績は大変好調でしたので、すぐにはドラッカー氏の思想を生かした経営改革を、という話にはならなかったのではないでしょうか。

公正取引委員会から寡占問題の指摘を受けたキリンビールは、企業の社会的責任をそれまで以上に意識し始めることになりました。その後、競争が激化し、販売数量が減少するなどの経営危機が、人事制度改革のトリガーとなりました。

若い頃、『現代の経営』に触れた世代が、1970年代の中頃に課長クラス、1990年頃に部長や役員クラスとなっているわけですから、その頃にCSVの源流となる医薬事業への参入、人間性の尊重という人事の基本理念やMBO-Sの導入が決定される土壌となっていたのであろうと思います。

土壌が合わなければ種が根付くことはありません。川村音次郎さんは社外から来られた経歴をお持ちであったこともあり、キリングループの組織風土とドラッカー氏の経営思想の相性の良さをお感じになったのかもしれません。

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