キリングループの歴史:1889年7月 渋沢栄一がジャパン・ブルワリー・カンパニー(現・キリンビール)の非常勤取締役に就任

キリングループ全体の取り組みを紹介するインターナルブランディングWebサイト『KIRIN Now』の記事を社外用に編集して公開しています。(公開日2024年7月1日)

写真:ジャパン・ブルワリー重役会議事録 1889年9月4日 渋沢栄一 サイン入り
(当議事録は英文のため横書きですが、渋沢栄一のサインが見やすいように90度回転させています)

2024年7月から新一万円札の顔になった渋沢栄一ですが、135年前の1889年7月に、 キリンビールの前身であるジャパン・ブルワリー・カンパニーの非常勤取締役に就任しました。

1840年、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれた渋沢栄一は、幕末の動乱期に最後の将軍・徳川慶喜に仕え、明治維新後は大蔵省 (現・財務省)の一員として新しい国づくりに深く関わった人物です。1873年に大蔵省を辞した後は、民間経済人として生涯に約500の企業の育成に係わり、日本の近代経済社会の基礎を築きました。

渋沢栄一はビール業界とも関わりが深く、今日のキリンビール、サッポロビール、アサヒビールに繋がる各社の設立や発展に尽力しました。官営の開拓使麦酒醸造所を前身とする札幌麦酒会社(現・サッポロビール)設立の際には、発起人の一人となっています。 また、1901年にビール税の導入が施行される際には、「情勢を判断するにビール税全廃は不可能と思われる。石当り7円課税を3円におさえるよう運動すべき」として議会に低減を請願するなど、芽吹きつつある日本のビール事業を守るため尽力しました。

渋沢栄一は、キリンビールの前身であるジャパン・ブルワリー・カンパニーに、設立の翌年の1886年に出資を開始しています。 その後、1889年7月19日の重役会で、取締役に任命されました。ジャパン・ブルワリー・カンパニーの取締役になった日本人は渋沢栄一だけでした。ただし、「重要な審議の場合を除いては、重役会への出席は要請されない」という条件付の非常勤取締役でした。以降の出席者のリストをみると渋沢栄一の名前はほとんどなく、もっぱら議事録に署名するだけだったようです。1896年、渋沢栄一はジャパン・ブルワリー・カンパニーの取締役を退任しました。

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