キリングループ温故知新 2024年9月編
キリングループは100年を超える歴史の中で、さまざまな環境変化を乗り越え、成長してきました。「キリングループ温故知新」では、これまで発売した商品の誕生や、取り組みについてご紹介します。
昔から今につながるものづくりへの想いと共に、これまで培ってきた知見、研究、技術を活かし、「よろこびがつなぐ世界」の実現に向けて、新たな商品やサービスを提供していきます。
1923年9月1日 関東大震災が発生、麒麟麦酒では本社事務所や横浜山手工場が被災
1923年9月1日11時58分、相模湾北西部を震源とする関東大地震が発生しました。
マグニチュードは7.9と推定され、昼食の時間と重なったことから、多くの大規模火災が発生しました。この地震による死者・行方不明者数約10万5千人のうち、約9割が火災により亡くなったと言われています。経済被害は、当時のGDP比約37%にあたる約55億円。近年の大震災と比べても、被害規模と社会経済的インパクトは極めて大きいものでした。
この震災で麒麟麦酒が受けた被害もまた壊滅的なものでした。麒麟麦酒は主力工場であった横浜山手工場と、工場構内にあった本店事務所を失いました。従業員26名の生命が奪われ、家族を失った従業員もいました。
「麒麟麦酒株式会社五十年史」には、当時の状況について次のような記載があります。
「震災の起った時刻は、あたかも昼休みの直前であったが、煉瓦造の事務所も、工場も一斉に倒壊した。~何とも手のつけようもないので、集った従業員一同に一たん家に帰って、無事な者は再び集るように申渡して解散した。午後になって家が無事であった人達が集ったときには、貯蔵室が崩れていてビールがどんどん下水に流れるような始末であった。工場は火を受けてその夜のうちに灰燼に帰した」
地震発生の翌朝から、従業員たちは焼け残った横浜市電引き込み線の荷出し場に集合し、救助や食料の調達にあたりました。貯蔵樽に残ったビールは、当時横浜市会議長であった監査役、平沼亮三のすすめで市民に配給して、たいへん喜ばれました。
壊滅した横浜山手工場は、調査の結果、修繕するには新設とほぼ同額の費用がかかることが判明します。横浜山手は立地条件が悪く、将来工場を増設する余地もなかったため、もともと別の土地で拡張をはかる計画がありました。そのため、麒麟麦酒は横浜山手での工場再建を断念。東京の赤羽も移転候補地となりましたが、平沼亮三や地元財界人から、「横浜で生まれたキリンビールは、これからも横浜で」という強い要望の声があがりました。
新工場の移転先として決まったのは、のちに横浜市に編入される生麦町。現在もキリンビール横浜工場のある、現・横浜市鶴見区生麦の土地でした。運河に面し、国道にも近く、付近まで鉄道の引き込み線が敷かれた生麦は、工場敷地として好条件を備えていました。
また、この震災により甚大な被害を受けたのは、麒麟麦酒だけではありませんでした。関東地区のビール工場と在庫品が壊滅した結果、市場ではビールの供給が逼迫しました。麒麟麦酒では、神崎工場(のちに尼崎工場と改称。1996年の閉鎖後は神戸工場に生産機能を移転)と仙台工場がフル操業を行って、横浜山手工場の空白を埋めました。同年5月に東洋醸造を買収し、仙台工場を得ていたことは、麒麟麦酒にとって幸運なことでした。
総工費約600万円をかけた横浜新工場は、1926年4月17日、最新鋭の設備を備えて生麦の地に誕生しました。横浜新工場には、第一次世界大戦の影響で帰国したドイツ人技師に代わり、活躍の場を得た日本人技師たちの技術が結集されました。ジャパン・ブルワリー・カンパニー以来の伝統である「品質本位のキリンビール」の評価は、横浜新工場の誕生でよりいっそう高まることになります。
落成披露宴会で配布されたパンフレット「復興の魁」では、新工場での再出発の決意を次のように語っています。
「わが新築の横浜工場は、耐震耐火の施設は改めていうに及ばず、最も意を清潔に注ぎ、設備はドイツ現代の最新なる醸造諸方式を採用して、ひそかに東洋唯一の理想的工場たるを誇負せり。~皆一に愛顧各位不断の高誼に依るところ、今や横浜新工場の竣成を期とし、ただ精励と誠実を以て、専心これに報いるのほかなきを痛感せずんばあらず」
「復興の魁」に残された「誠実」という言葉には、現在の“One KIRIN” Valuesに掲げられた「誠意」へのつながりも感じることができます。
写真:関東大震災後、生麦に建設された横浜新工場(1926年)
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2005年9月7日 キリンビールがキリンブランド初の国産ウイスキー「キリンウイスキー 富士山麓」を発売
2005年9月7日は、キリンビールから「キリンウイスキー 富士山麓」が発売された日。
「キリンウイスキー 富士山麓」は、キリンブランド初の国産ウイスキーです。キリンビールが洋酒事業に参入したのは1971年。翌年、キリンビール(日本)、JEシーグラム(米国)、シーバスブラザーズ社(英国) の三社により、キリン・シーグラム株式会社(現 キリンディスティラリー株式会社)が設立されました。
1973年には、キリン・シーグラム富士御殿場蒸溜所が静岡県御殿場市で操業を開始します。この富士御殿場蒸溜所とキリン・シーグラム社のもとで、ウイスキーの製造・販売は行われてきました。
2002年、キリンビールは洋酒事業部を設置。前年に統合していたキリン・シーグラムの営業部門に加え、同社のマーケティング・物流部門を統合し、キリングループの洋酒・ワイン事業をキリンビールに集約しました。また、キリンビールはシーグラム社が保有する株式を譲り受けます。100%子会社となったキリン・シーグラムは、国産洋酒の製造会社としての機能を引き継ぎ、社名をキリンディスティラリーへと改めました。
キリンビールは、2005年を国産ウイスキー事業再構築の年として位置づけており、富士山麓ブランドはその柱である最重要商品でした。富士御殿場蒸溜所で製造された国産ウイスキーは、第一号商品の「ロバートブラウン」他、エコノミークラスの「ボストンクラブ」などの先行商品がありました。しかし長らく新規投入がなく、「キリンウイスキー 富士山麓」は6年ぶりの新商品発売でした。キリンブランドとして初めて新商品を投入することにより、国内ウイスキー市場でのキリンの存在感を増すことも狙いでした。
新商品の開発にあたって掲げられたのが、”新・蒸溜所価値”です。富士山麓の清らかな伏流水を使用していること。富士山麓の標高620mに位置し、冷涼な気候と適度な湿度に恵まれた土地であること。モルト原酒、グレーン原酒ともに製造し、仕込みからボトリングまで一貫して行う世界でも珍しい蒸溜所であること。”新・蒸溜所価値”とは、ウイスキーづくりの地として、富士御殿場蒸溜所が持つ特長を生かした商品づくりでした。
新商品は、「キリンウイスキー 富士山麓 樽熟50°」と「キリンウイスキー 富士山麓 シングルモルト18年」の二種類で展開されました。「キリンウイスキー 富士山麓 樽熟50°」は、国産エコノミーにはなかった50度という高めのアルコール度数が特長のブレンデッドウイスキー。「キリンウイスキー 富士山麓 シングルモルト18年」は、人気が高まりつつあったシングルモルトカテゴリーに、富士山麓の自然が育んだやわらかな味わいという新しい価値を提案しました。
富士山麓は、発売と同時にウイスキー愛飲者の高い支持を受け、発売初年度のシリーズ販売実績は当初予定の2倍近くとなる6万6,000ケース(600ml×12本換算)を記録しました。現在、富士山麓ブランドからは、「キリンウイスキー 富士山麓 Signature Blend」が販売されています。
写真:発売開始時の商品写真